浄国院(浄土宗)じょうこくいん

当山の由来
奈良の都が京都に移されてからは、奈良仏教の影はうすらいで、弘法、伝教両大師の開宗になる真言、天台の新興仏教に脚光が浴びせられることゝなった。
華厳、法相、律などの法城も、面目を維持してゆくのに精一杯の有様であった。そしてそれらの塔中寺院も次から次へと影をひそめて行って、荒れるにまかさねばならなかった。一方、七大寺中心の御用商人や耺人などは、京の町へくと移り住んで、昔の都は日増しにさびれて行った。

南北朝の初期に傾西上人と申す道心堅固な偉いお坊さまが、南都に御遊学いたされて、西大寺、唐招提寺などに律を学ばれ、法相の奥義を究められた后、笹鉾の邑にあった興福寺の?中を復興、開塞いたされて安養寺と名付けられ、阿弥陀如来を御念持せられて、大往生の素懐を全うせられているのである。
それ以后は各本山の学?が次々に隠遁して念仏道場に法灯を守り続けて来られたのである。定朝という南都仏師が心魂こめて造ったと伝える阿弥陀如来の座像を御本尊と仰いで当時の御中心に安置し、貫主の居間には、一人の衆生も漏らさずに救い取るというお手元にみづかきのついた等身大の阿弥陀如来の立像を安置せられて、日々夜々に五色の糸を合掌に受けながら、お念仏せられたと伝えられている。

更に時代は流れて、慶長元年に至って、天運社暁誉歎柦翁(てんれんじやぎようよだんのう)という名僧知識が京より下られて、緋衣の各式をもって、一町四面の大寺院を整備いたされ、分院として山城国木津に正覚寺も兼ね開かれるに及んで、無衰山という山号と浄国院という院号と、安養寺という寺号が完備せられて、こ々に当山が完全なる知恩院の枝葉寺院として奈良の町を飾ったのである。